【伊納忠孝】はじめて日本地図を作った男の測量技術とは

千葉県佐原村の商人だった伊能忠敬は、49歳で隠居して、学問を志します。
当時51歳の忠敬は、32歳高橋至時に弟子入りして天文暦学の学問を志します。

そして地球の円周を知りたい。
そんな思いで55歳で日本全国測量の旅が始まります。

 

今回の動画を見ていただければ、
伊能忠敬の測量技術、測量道具、地球の円周について分かります。

最後に、伊能忠敬が計算した緯度1度の距離と現在の緯度1度の距離で違いがどれだけあったのかをお話しまします。
ぜひ最後までご覧ください。

それでは3つのポイントです。

1つ目は、伊能忠敬の行った測量技術
・導線法
方位盤を使って、北方向を測ります。
そして測量するポイントまでの角度を測定して、間縄や鉄鎖で測量ポイントまでの距離を測定する方法です。

・交会法
導線法だけでは、誤差が累積していきます。
その誤差を配分するために交会法という手法を使いました。
測量ポイント2つ以上のポイントから見える高い目印になるもの
高い木や高い山を2方向以上から角度を測定してズレを補正する方法です。
忠敬が書いた地図を見ると富士山のような高い山の頂きには、赤い線が引いてあり角度を確認したあとが見られた。

・象限儀
坂道で傾斜角を測って、斜めの距離を作っておいた数表を使って水平距離を計算していました。

2つ目は、伊能忠敬が使った測量道具
伊能忠敬と言えば、1歩を69センチで歩くように訓練をして、歩測で測量をしたことで知られています。
でも実際には、1次測量のときには歩測で図りましたが、2次測量以降の10次に渡る測量には、より精度を高めるために、測量道具にはこだわったと言われています。

それでは伊能忠敬が使った測量道具を紹介します。

・方位盤
方位磁石が付いていて、北方向を測るのに使っていました。

・間縄・間竿
当時の長さの単位である間や尺を測るために、縄や竿を使いました。
間縄は水に濡れると伸びたり縮んだりするため、切れたり伸び縮がない鉄の鎖、鉄鎖(てっさ)を使用することもあった。

・量程車
車輪の付いた箱型のものを紐で引いてゴロゴロと転がして、車輪の回転数で距離を測るというものです。
現代でも似たようなものがありますが、凸凹しているところでは使えないという弱点もあります。

・象限儀
扇形で、高度角を測るもので、大きさは大中小があり、使い分けていたようです。
小さいものは、坂道で傾斜角を測って水平距離に治すために使っていました。
大きいものは、測量精度が高く、その場所の緯度を測るために北極星などの星の高度角を測定していました。

3つ目は、伊能忠敬が地球の円周を測る
地球の円周の測り方としては、緯度1度の距離を測定できれば、
その距離に360を掛ければ地球の円周になるということになります。
その緯度については、地平線から北極星までの角度を象限儀で測ります。
その角度がその位置の緯度と同じになるということになります。

A点の緯度とB点の緯度を測定して、AーB間の距離を測定して計算すれば緯度1度の距離が求められるということになります。

そして忠敬は、自宅のある黒江町(現在の江東区門前仲町)と浅草の緯度を測定して、その距離を測ります。

江戸では縄を張って測量することは禁じられています。
そこで黒江町から浅草まで、歩測で測ることにしました。
正しい距離を測るためには、歩幅を一定にしなければなりませんので、忠敬は一定の歩幅で歩く練習を繰り返します。
一歩を69センチ、69センチ、69センチ、曲がり角は方位磁石を使って角度を測りました。
曲がらないように道を真っ直ぐに歩き、人がいても、水たまりがあっても、馬のふんが落ちていてもよけずにまっすぐに歩いた。
何日も同じ道を同じように歩いて歩数を数えて、その距離を出しました。
そして「黒江町 浅草測量図」も作りました。

黒江町と浅草の緯度の差は、一分半、距離は二十二町四十五間(おおよそ2482メートル)であった。
そこから計算して緯度一分の距離は、1631メートルとなる。

忠敬は、興奮して
「至時先生、分かりました~、緯度一分の距離が分かりました~」
測量図と計算した結果を高橋至時に見せます。
至時は首をかしげます。
「忠敬どの、この数字は正確ではありませんね。調べ方は間違ってはいないのですが、黒江町と浅草では距離が短すぎます。」
「もっと離れた地点、もっと長い距離を測ることが必要ですよ。」

「いやいやマジっすか?」

「蝦夷地(北海道)へ行って測量してみてはどうですか?」
「幕府は蝦夷地の地図を欲しがってます。江戸と蝦夷地の緯度を測って、距離を出せば、緯度1度分の長さを出すのに十分な距離です。」

そして伊能忠敬の日本地図を作る壮大な旅が始まりました。

伊能忠敬は、10次に渡る測量中、13箇所で緯度1度を測り、最終的に二十八里二分としました。
これは現在の数字と比べて約0.3%の誤差しかないという結果です。

伊能忠敬が日本中を歩いた距離は4万キロ、奇しくも地球一周分の距離と同じだったそうです。

そして伊能忠敬は1818年4月13日、享年74歳、亡くなりました

その後、弟子たちは忠敬の死を伏せて地図を作り続けます。
そして3年後に「大日本沿海輿地全図」が完成します。

以上、伊能忠敬の55歳から始まった日本地図を作った男の測量技術についてお話しました。

老後の人生
ゴルフして、温泉入って、旅行して、のんびり過ごすのか、
それともチャレンジをし続けるのか、選ぶのは自分次第です!